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Back To The Street ふろむ診療所

1989年11月10日未明 ベルリン

17年前の今日、11月10日未明ベルリンの壁が崩壊した時である。実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和が発表され、なし崩し的に東西の往来が可能になった日であり、誰かが銃撃を恐れず壁にハンマーを打ち下ろした世界史に残る記念すべき時であるが、翌年10月3日が正式の東西統一の日である。

私は、ベルリンの壁が崩壊した頃、北九州のある総合病院にいた。当時の日本は、バブルで浮かれた医師達も銀行の斡旋融資にのってゴルフ場の会員権やマンションを次々に購入し、あからさまに値上がりを期待し、秋にはボジョレーヌーボーにも大枚を叩いていた時期でもあった。同僚や先輩達はあの借金を今頃どうしているのだろう?未だに悔やみながら返し続けている人も居るかもしれない。私は、あまりバブル的なモノには興味は無かったし、むしろTVに映る東欧の混乱や崩壊過程に心惹かれていた。

 

8月にはハンガリー、9月にはチェコ、10月には東ドイツでホーネッカーが辞任した。しかし、11月の壁崩壊には正直驚いた。多分、生中継で一番最初の瞬間は見ていないが、心の中にはあの頃の一連の映像がしっかり記憶されている。毎日がドキドキだった。それは、イラク戦争アフガニスタンの映像とは全く異質で、不安より希望や同情や好奇心が支配する歴史的ドラマであった。

現代の若い医師には信じられないかもしれないが、私はその病院にほぼ毎日住みこんでいた。医師になって五年目で自信過剰になりかかる危険な年齢で、その救急総合病院では専門の循環器だけをやっとけば良い身分ではあったが、ひたすら医局に7ヶ月間、土日で当直が無い限り、基本的には医局の仮眠用のベッドに泊り続けた。毎晩、他の誰かが数名当直をしているので、小児科であろうと外科であろうと脳外科であろうと、夜間の救急には手伝いというか見学というか、喜んで飛んでいった。勉強熱心というのが表向きの理由で、本当の理由は病院官舎が感謝するほどには住み心地がよくなかったのと、オペ着を着替えるのが面倒だったからだ、というのは冗談です。やはり、実地研修を真剣に考えていたから他科の医師から臨床を吸収するのに住み込みは最適と考えたからだし、いずれ留学する前に臨床の経験をつめるだけ積みたかったからだった。

前置きはこのくらいにして、その頃の心境などを忘れないうちに書き残したい。私は、バブルの日本で患者だけの事を考えて時間を過ごしていていいものか?と疑問を常に抱いていた。

特に、その後の12月16日から25日にかけて起こったルーマニアでのチャウシェスク政権の崩壊と夫妻の処刑の映像は生々しく、暖かな病院内に患者相手にじっとしていられない感覚を抱かせた。ぜひ、歴史の舞台をこの眼で見たいと強く願っていた。翌4月に大学へ戻り、勤務医の特権である2週間の夏休みに、東西統一目前のベルリンに行くことにした。

ベルリンへの最短コースとして、8月21日にKLMでアムステルダムに渡り、KLMの小型プロペラ機でハノーバーへ、そしてやはりプロペラのBAで西ベルリンへ飛んだ。しかし、早速荷物が出てこない。医者のクセしてドイツ語は苦手だったので、大した荷物は入っていなかったが大いに困った。しかし、一番困ったのは私の明日以降の連絡先だった。私の旅行はたとえ外国であろうと宿は数日前にしか決めないことが多い。天気や雰囲気で行き先をクルクル変更する風来坊スタイルだ。このときも東欧の事は殆ど書いていない地球の歩き方と、Thomas Cook European Time Table しか持ってなくて飛び出してしまい、ホテルも西ベルリンのGrand Hotel Esplanada Berlin という超高級ホテルに、たった一泊だけしか予約していなかった。判ったらホテルに連絡を・・といってホテルに向かったが、荷物はどこ行ったか判らない。国内線を含め3回乗り継ぎしてるのでアフリカあたりに行ってるかもしれず、翌日までにホテルに届くか否か全く期待出来なかった。

それで、ホテルに着いてまずやったことは連泊依頼で、当時300マルクもした高級ホテルだったので計画はスタートからおかしくなった。ちなみに、このホテルの浴室には室内プールと立派なサウナが付随しており、奇妙な事にサウナは男女両方からの利用が可能で、うら若き女性が2人入っていて、バスタオルの巻き方がルーズで奥までハッキリ見えるので、私は眼のやり場に困ってあと少しで茹で上がってしまいそうだった。今思えば、あれは客ではなく、コールガールだったのでは?と思う。でなきゃ、不自然だ。ま、そんな事はどうでもいいが・・・

先々のお金に不安が出たので、あまりタクシーなどは使えず、TVで何度も見た例のブランデンブルグまで歩きに歩いた。一応穴の開いた壁も少しばかり叩き割ろうとしたが簡単には割れず、お土産として買う事にしたが、西側は色合いが妙にワザとらしく、目の前に本物の壁があるにも関わらず偽物かも・・と疑念を持ったほどだ。一応、まだ東ドイツだったのだが国境はフリーパスで、Checkpoint Charlieを探して通ろうとしたが、残念ながら場所がよく判らなかったので諦めた。またまた歩いて、リンデン通り、国会、駅、ペルガモン博物館、丸いテレビ塔などキョロキョロ眺めながら一人うろついた。いまだに東西ベルリンの雰囲気の違いは明らかであったが、全てを観念して受け入れた安らかさを、東側の街並みや人々の顔に感じることも出来た。

もう一つの目的は東欧諸国のビザの取得だった。洗練されたベルリンは東欧とは感じ難く、当初から長居は無用と思っていたので、東ベルリンにある東欧諸国公館で、まずチェコのビザを取ろうとしたが直ぐに発行は無理だった。ハンガリールーマニアも直ぐにビザの発行は不可能で、最も確実なのはハンガリーに空路入り、空港で一回ビザを発行してもらう事だった。

結局、私のスーツケースは翌日にはホテルに届けられたので、ベルリンを充分に歩き回った後、今度は贅沢にもベンツのタクシーで東ベルリンの侘しいSchonefeld空港へ行き、ハンガリーMALEV航空でBudapestにノービザで入ったのだが、この事が数日後に大事件を引き起こす事になるとは、その時まだ私は知るヨシも無かった。この後のことは、またいつか書いてみたい。

 

読んでくれてどうもありがとう。