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猟銃の想い出

先日、当ブログに「拳銃を持つ患者」の話を書いた直後に偶然にも痛ましい佐世保の乱射事件が発生した。東京の医師の息子達が加害者と被害者になるという悲劇とはまた違った事件だったが、武雄市の病院内での人違い殺人、大牟田市の病院玄関前での銃撃など医師や医療機関も銃社会を意識せざるを得ません・・・

この佐世保の痛ましい事件は現代の世相を反映した、まさに「犯人の生活の軌跡」が良くあるミステリー小説のようでした。詳しくは書きませんが、体格に恵まれながらも安定した就労に付かず親の退職金を使い続けるパラサイトシングルが、車や船や銃などの贅沢を知り、働かずとも保護される現代社会の何不自由ない生活の果てに、やっとテレビドラマの様な恋を知るも、当然なる失恋と未来への閉塞感から、理屈の通らない復讐ともいえる殺人を派手に起して無責任にこの世を後にする・・・このママのプロットで小説が書けますね、きっと。

 

今の日本には30万丁の散弾銃と4万丁のライフルが登録され存在しているようです。結構すごい数ですよね・・・ でも我が家にも4~5丁の散弾銃が存在していた時期がありました。あれから30数年・・・またまた想い出話にお暇な方はお付き合い下さい。

 

ちょうど父が今の僕の年齢の頃を中心にしばらくの間、猟銃を鴨や雉の狩猟目的で所有していた時期があった。 

僕の家の裏手には今でこそ家が増えてきたものの、当時は道路の整備もなく自然環境もよく、毎年沢山の鴨がこの時期になると渡ってきていた。父は一人で出かけたり知人と数人で出かけたり、時には小さかった僕を誘って鴨撃ちに出かけることを趣味としていた。

稲刈りが終わった田畑の中のクリークと畦道を 時には急ぎ、時には静かに、飼っていた数頭のイングリッシュポインターと白い息を吐きながら僕は父の後に続いた。早朝と夕暮れ時が主な狩猟の時刻であったが、僕はクリークから飛び立つ鴨を仕留める父の姿を今でも良く覚えている。

ポインターも僕らの家族のようで、クリークに潜む鴨を追い出し、撃ち落された獲物を加えて静かに戻ってくる姿にも野生の感動を覚えたものである。

 

我が家には厳重に鍵のかっかる猟銃保管庫があって、そこに銃は保管されていたが長期間使用しないときは銃砲店に預けていたようだ。狩猟の期間が始まるのは11月1日だがその前には父と度々銃砲店を訪れ「将来は僕も狩猟をするのかな~?」と漠然とした想いを抱いていた。

結局、僕自身が成人した頃には我が家の近くが猟場としては魅力が無くなり、僕は狩猟を趣味とすることも無くなった。父も僕が医学部に上がる頃には狩猟を止めたようだ。仲のいい狩猟仲間が亡くなったことも影響したと想う。あるいは生命を奪う趣味を医学生の僕に配慮して止めたのかもしれない。そう言えば理由を聞いたことは無かった。

 

あの頃の狩猟解禁日「11月1日」といえば今より確かに寒かったような記憶がある。日の出の時刻になると、我が家の裏手の方で「ダン、ダ~ン、ダン」という音が鳴り響き、僕はそれで眼が覚めていた。「あ~、今年もオヤジが出かけていって鴨を仕留めたのだろうか?」という事を想いつつ暖かな布団の中で再び眠っていた。小学校から帰宅すると準備万端の父が猟銃を片手に僕を待っていて、「さ、行こうか・・ こっちを持て・・」と散弾を込めていない猟銃を僕の方に掛けて、母に見送られて二人して陽が傾きだした裏の方に駆け出していった。猟銃は子供の肩にはあまりにも重たかったのであるが、その重さを父は僕に背負わせたかったのであろう・・・

 

今では新興住宅地として沢山の家が次々に建ち、全く渡り鳥も近づかない可哀想な土地になってしまった。開発によって確かに道路もよくなり便利にはなったが、あの頃と今とどちらが良いかと問われれば、躊躇無くあの頃の自然が残る田舎の風景が好ましいと僕は思う。移り住んできてくれる人たちには分からないだろうが、猟銃を肩に親子で走り回っていた田舎の姿がもう近所で甦る事はありえないだろう・・・

 

猟銃乱射事件を見ると、僕も物騒だったアメリカ留学当時を思い出すのであるが、当時の父の年齢になった僕は少し父の気持を分かりかけてきたようで、「目的外使用」に対する悲しさも胸に秘かに感じている。

 

読んでくれてどうもありがとう。