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大和路の旅

ここ数年、【鹿男あをによし】の頃から綾瀬はるか命・・・かと見まがうがごとき一途な奈良ファンになっているMurajun先生。復活の日々の途上にて【大和路の旅】という本を読んだ模様だ。理解できたか否かは定かではないが、何かを感じて表現したく、悶々として寝苦しい夜を過ごしているそうな・・・

そのM先生のご意見を聞いてみることにした。ちなみにM先生は邪馬台国九州説、細かくいえば、(旧)山門郡瀬高町を中心とした非大和説の急先鋒の一人である。

 

しかしながら、卑弥呼墳墓説が声高にささやかれる箸墓古墳周辺の山の辺地区から三輪山を仰ぎ見る当りの地政学的有利性に関しては異を唱えるつもりはさらさらない。おそらく、飛鳥以前の関西文明の中心であった事は間違いない。

がしかし、大和が出雲や九州北部と比して優越的文明であったかどうかにはいささか疑問である。

 

では、なぜに桜井・飛鳥なのであろうか? この本にも一切のべられていないM医師の考えはこうだ・・・

 

1)生駒山以西の難波(大阪)は大和川の河口のポイントであったであろうが、厳しい古代の自然環境においては定住地として都を形成するに価せず。

2)河川交通は騎馬民族ではなかった古代倭において中心的な役割を担っていたので大和川から飛鳥川を遡るルートは渡来人との交流において非常に大切であった。

3)古代は治水技術が低く、山の辺の三輪山近郊が西にっ広がる沼地の季節性水害を避ける意味で定住に適していた。

4)時代が下り治水技術の発展(輸入)とともに盆地を形成する飛鳥地区が清らかな水の都としてその地位を高め、渡来人を含む有力な人々が都の機能を託すように最初の都市計画が行われた。

5)人口の増加とともに飛鳥エリアでは手狭になり、藤原京から平城京へと広いエリアを求め移動(遷都)せざるを得なかった。

6)人口増加は疫病の増加と連動し、その対策に治水が更に重要性をましたが、平城京への河川交通機能は人口の割に低く、更に大きな淀川系の河川交通が決め手となって平安京が選定された。

7)桜井・飛鳥・藤原京平城京平安京・・・いずれも台風の影響が比較的少ない地域でもあった。

 

それに比し、九州山門説は台風の影響が非常に大きく、継続して大きな都を古代に維持して行くのは困難だったかもしれず、その点がややM先生の自信を妨げている要因でもある。

 

今も平安京の名残をはっきりと残す京都に比べ、奈良は1300年の時を経て全くの別物となっているようで、余計にミステリアスでM先生の軽いオツムを引き寄せてやまない。

西の京の薬師寺唐招提寺平城京の比較的真ん中にあったなんて・・・ 平城京って実に広い立派な古都だった事に今更ながら感じ入っている・・・

 

読んでくれてどうもありがとう