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Back To The Street ふろむ診療所

不審者、江戸を往く②

前回の記事にわざわざ「妄想ですヨ」と断り書きを入れたのに、何人かマトモにとらえて心配するコメントをいただいた。掲載はしないが、「25歳と一戦交えてお疲れでしょう?」とか、「本当は17歳で淫行条例違反では?」とか、「52歳の間違いじゃ?」とか、「腹上死したら恥かしいぞ」とか、「浮気で家庭崩壊ヨクナイアル」とか、様々な御心配をおかけしたようで早々に訂正してお詫びしますが辞職はしませんので悪しからず・・・

正しくは・・・ 「日々の診療で疲れ果てて22時過ぎに到着したものの、高級ホテルのレストランやルームサービスはべら棒に高く、食費は自前なので、ウトウトしてて眼が覚めたら腹減ってて、恥ずかしながらベルボーイにコンビニを尋ねて深夜にアメリカ橋を渡った先の左側にあるセブンイレブンに夜食を買い出しに出かけて、【不審者】の様に一人さびしくアイスクリームを食べながらホテルに戻って、おつまみを手に浅田次郎新撰組の本を遅くまで読んで寝不足になった・・・」 なので なにとぞご心配なく。

 

さて、「釈明」はこの位にして・・・ 続きを急ごう。なにしろ国立西洋美術館を出たのが14時30分過ぎで、羽田には19時30分には着かねばならぬワンデートリップの悲しさ、お金もなけりゃ時間もない、ついでに若さも精力もないナイナイ尽くし・・・あるのは想像力・妄想力・行動力と有り余る脂肪、少し分けてあげたいものだ。

さてさて、「上野の山」は確かに吉原や鴬谷の方から眺めると山ではあるが、上野公園の不忍池から眺めると東京大学方面がむしろ山の様に見えて足が向いてしまった。

さだまさしと縁があるかどうか、「無縁坂」という名の坂を登ると左手は旧岩崎弥太郎宅だった。NHK龍馬伝の時からますます有名になったであろう広大な土地は今は最高裁判所の持ち物とか・・・増税回避のため売却すればいいのに、と感じた。

三菱財閥創始者の岩崎弥太郎宅は、陸軍大将・西郷どんの腹心・桐野利秋の住いだったそうで、これは初耳だった。桐野は西南の役(明治10年の西南戦争)で西郷隆盛に付いて最後まで戦い散った薩摩の中村半次郎(人切り半次郎)であるが、元々は徳川一門の邸宅跡を薩摩の志士が維新後に論功行賞として頂戴し住もうていたとは・・・、土地にまつわる歴史とは面白いものである。

 

その「無縁坂」を登り切ったところに僕とは全く無縁な「鉄門」がある。「鉄門」とは東大医学部の別名?で、誇りある名の由緒ある御門なのであろうが、今は小奇麗で普通の通用門の様で意外だった。ただ、東大とは無縁の身ゆえ、鉄門の横の小さな通用門を神妙に通過して東大に生まれて初めて足を踏み入れた。一生東大とは縁が無いと思っていただけに、恥ずかしながら緊張した・・・

 

どうやらここも以前は加賀前田藩の上屋敷跡らしい。有名な赤門もそうなので、相当に広大な前田藩の上屋敷だったのだろう、小さなお城並みで流石は加賀百万石だ。

で、東大とは無縁の田舎医者はどうしたかと言えば、二度と来ないかもしれないので、一度は東大の医者の気分を味わいたいと、ご立派な附属病院の最上階にあるレストランでコーヒーをいただいた。銀杏の模様を眺めながら、ついでに289kcl の「お粥」もいただいた。遠くにそびえる「東京スカイツリー」は、東京タワーよりも美しいとは感じなかったが、そのうち印象は変わるのであろうか、エッフェル塔の様に・・・

 

まあ、いくら病院のレストランで食事しても東大の医者にはなれないが、折角なら白衣着て聴診器ぶら下げて歩きまわればよかった。ただ、【不審者】として逮捕され新聞に出たかもしれない・・・「東大病院に不審な偽医者現る」として。ただ、「偽医者」じゃないけどねぇ・・・

病棟も見学していきたかったが、面会手続きなどが必要そうで、時間も無くて諦めた。次は僕自身が病気で入院するまで病棟に来ることはないだろう。まあ、どこも似たようなものだし・・・

せっかく生まれて初めて東大の構内に足を踏み入れたので、【不審者】と思われない様に気をつけながらウロウロしてみた。学生が少なかったのでビックリしたが、まだ夏休み期間なのであろうか? さすがに歴史ある建物であったが、留学してたアイビーリーグ校の雰囲気とは少々違っていて、特に新しく建て直している建物はエレガントさが感じられなかったので残念だ。母校でもないのに余計なお世話・苦情もなんだが、最高学府でかつてはただ一校の帝国大学だっただけに、もっと何とかならないものだろうか? と、一応言っておく。

かつて学生運動のシンボルだった安田講堂は意外と小さいんですね。前の広場ももっと広いかと思っていましたが、でも今も使用されていると知り嬉しかったです、何の関係もありませんが・・・ 僕と同じく東大と無縁そうな観光客が写真を撮影してました。東大の教官と勘違いして?声をかけられたのですが、ただのシャッター係りでした。ですよね・・・

 

ここ東京大学医学部は明治9年(西南戦争の前年)に本郷旧前田邸跡に東京医学校として新築されたそうですね。翌10年に東京大学医学部になったとか。その時からドイツのベルツ医師が医学校で生理学や薬理学、そして内科学を教え始めたらしいですね。ドイツ語だけでしょうね、凄いですね。

東京医学校の前身は「大学東校」で、明治4年にドイツからミュルレルや ホフマンが来日して教えていたとか・・ まあ、その頃は既に全国の医学校で多くの外国人教授が西洋医学を教えていたとかで、当時の生徒達も凄いな・・と感じます。行ってみたいですね、あの時代に、南方仁先生の様に・・・

でも、明治維新の前にも、オランダから ポンぺや ボードイン、イギリスから ウィリスなどが来日して西洋医学をおしえていましたし、ポンぺの来日は1857年ですから明治元年1968年の10年も前になります。なんと、ドラマ【仁】の舞台より前ですからね・・・

ちなみに【仁】の中で重要な役割の奥医師、松本良順先生はポンぺの一番弟子らしく、幕府の江戸医学所の頭取を務めています。

また、ドイツ医学に決まってからは英国のウィリス医師が西郷と薩摩に行くなど、医学も大久保派と西郷派があったとは驚きでした。オランダ医学派の松本良順が後も出世したのは実父が凄い人だったからでしょうか?

 

東大医学部の前身は1858年に出来た神田お玉ヶ池の種痘所らしいですけど、現在の場所には1876年に立てられたそうですね。それでも旧いですね・・・ でも長崎が1857年ですから最も旧いんでしょうね。日本最初の近代病院(長崎養生所)も1861年に長崎に建てられましたしね。

話が江戸から逸れました・・・

まあ、日本でもドラマ【仁】で武田鉄也演じる緒方洪庵先生が、大阪に除痘所を1849年に設立しています。幕府に請われ1862年に江戸医学所の頭取として江戸に出ています。翌年に結核で死去しましたが、南方仁先生とも交流があったようですね。緒方先生は南方先生を信頼してたらしいですから、南方先生はやはり凄いですね・・・

でも、その更に前の1838年に江戸薬研堀に佐藤泰然という人が西洋医学の蘭学塾和田塾を開いています。江戸の町奉行から要注意人物に挙げられていて、まるで南方仁先生みたいですね、この人・・・

 

この続きは③で・・・   東大の先生方、【不審者】の話はどうぞ聞き流して下さい、色々間違ってるかと思います。