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Back To The Street ふろむ診療所

最期の言葉(3)

ここ数週間のあいだに僕自身が体験した印象深い「患者の最期の言葉」を個人情報を分かりにくく少々変えながら書いてきた。一応の最終回として、3人目の「最期の言葉」を今回は書きたい・・・ただし、「僕が聞くことが出来なかった最期の言葉」である。

 

当院は人工透析を行っている。どこかの大病院のサテライトではなく、単独型の無床診療所である。医者は一人しかいない。優秀ではないが、メタボのくせして体力だけはあり、開業以来15年近く、一度の病気での休診もないし、遊びで休診にしたこともない。従って、この77歳女性とも、約14年間に、週三回(一回5時間)、盆正月でも、地震や台風の日でも、ざっと2200回、一万時間以上も人生を同じ屋根の下で過ごしたことになる。この女性は独居でもあり、ここ数年で一番長く一緒に過ごしたのは僕ら透析スタッフなのである。

 

いつもニコヤカで患者間でも人気者の女性は、近所に息子家族が住んでいるものの独居である。当院が開院してまもなく他施設から転院されてきた。心臓に不安があって、循環器専門医兼透析専門医の僕が良さそうと感じたらしい。もちろん、ハンサム医だとの地域の評判が最大の要因だったそうだが・・・

彼女に限らず、透析患者さん達は常に「最期はどうなるのだろう?」と生と死の狭間で毎日を過ごされ、しかも多くの人はその不安を顔に出さずに明るく気丈にふるまっておられる。いつか訪れる死を笑い飛ばすような性格の女性でもあった。僕らも努めて自然にふるまうようにしている、たとえ誰かが亡くなったとしても。僕らの表情を他の患者さんも気にするからだ。

 

これまで何度か彼女も入院したことがる。当院での14年余には3度・・・重篤な出血性胃潰瘍甲状腺癌摘出手術と胸痛発作。ただし、数年前の冠動脈造影検査はほぼ「異常なし」で、ここ最近は循環器系統のイベントは認めていなかった。むしろ、足腰の加齢変化で、「あぁ、足が痛い、腰が痛い・・ もう婆さんみたいだわぁ」と、自分が70代後半であることを笑い飛ばして週三回の透析に通院して来られていた。

 

「寒くなったから風邪ひかないようにね・・・」

『先生もね・・・ 先生が病気したら私たち困るもんね。じゃぁまた明後日ね・・』

それが僕との「最期の会話」になった・・・

 

次の透析日の早朝、彼女に異変が生じた・・・

彼女は教えていた僕の緊急携帯電話への連絡ではなく、近所の息子さんへ電話をされた。夜が明けるのをまったのかどうかは判らないが、息子さんに『ちょっと・・・ どうか具合が悪いのでスグ来て欲しい・・・』 と、長い透析生活で初めての緊急電話をされた様だ。

仕事に出かける前の息子さんも母親の声の感じに不安を拭えず、急いで母親の家に駆けつけたのだが、到着した時には既に心肺停止状態だったという。ほんの十数分の間だったので救命措置をしつつ基幹病院に運ばれたが、残念ながら彼女は16年間の透析生活に終止符を打たれた・・・

 

人生の最期の最期に呼びかける電話はやはり家族へであって、14年間も診療して来た主治医ではなかった。家族の存在、家族の絆は、我々医療人がどんなに頑張っても勝てない強いものだと思う。

恐らく死を予感して初めて息子を緊急呼び出しした彼女の脳裏に僕ら透析スタッフの姿は浮かんだのだろうか? 僕らは彼女の人生に充分な仕事が出来ていたのだろうか? 彼女の聞こえなかった「最期の言葉」に涙した透析室のスタッフは少なくない。僕もその一人である・・・

 

空いた彼女のベッドの周りの仲良し患者達が彼女の死を知ったのは次の透析日だったが、僕らも患者さんたちも自然にふるまい、淡々とやるべき透析医療を行った。

ある患者が・・・「私もあんな風に コロッと苦しまずに死にたいわぁ・・」と言われたが、他の人がうなづく姿も見てとれた。そういうものかもしれない・・・

 

数日後、その突然の母親の死に向き合われた息子さんが当院に挨拶にみえた。これまでの14年間の我々の医療に笑顔で感謝して頂いた様で、スタッフみんなホットした。

『 先生、皆さん、ホントに長い間お世話をかけました。ありがとうございました 

シンプルな言葉ではなるが、恐らく彼女も同じ言葉をかけてくれただろうと思う。

 

 

ここ最近、立て続けに印象深い患者の死に遭遇した。我々医師にとって、千人の患者は千通りの死を迎えるのであるが、その人の人生の最期をどう迎えさせてあげれるのか・・・ 難しい永遠の課題である。